この世の「可哀想な人」を生み出して自分がやりたいことは何か。
母の痩せが止まらない、らしい。
普通に食べてるのに、去年から5キロ落ちた、と。
癌が転移している、もう年を越せるか、、というのが最近よく言うことだ。
根拠はないが、本人は不安からそう思うらしい。
何もないのに体重が減り続けるはずがない、と。
昨日、検査を受けたら、異常なしだったらしく、明日の大腸内視鏡で特に所見がなければ、少し落ち着くだろうか。
しかし、この私の中のざわざわはなんだ。
「また言ってるわ」という冷静的な自分のつもりで、どこかで、現実を観たくないだけの逃げなのではないかと思う。
しかし、そのいずれもが、母は「可哀想な人」前提なのだ。
たぶん、そのことへの違和感。そのことへの怒り。
私の魂は、そんなことをぐちゃぐちゃ考えるために生まれてきたのではない、と怒っている。
この世には、可哀想も悪いも不幸も偽物も存在せず、ただそう評価する自分がいるだけなのだと感じる。
でも、現実レベルでそれを体現できていない。
怖い。できない。頭おかしいと思われる。安泰でいきたい。既定路線が安全。人に責められたくない。等等で抵抗するから。
それをやらずとも幸せに生きられるのではないか?という試み。そして、すべて原点に戻らされる。
誰かと比較しても無意味である理由は、それぞれにとっての課題が異なるから、なのだろう。
「正しさはない」という私の正しさをだれかに押し付けることは、単に正しさを小奇麗にまとめただけであって、なんも変わらない。小賢しいだけ余計気色悪い。
というわけで、母を可哀想と思わないようにしよう、ではなく、母を可哀想と思ったり、どうにかしたいと思ったり、自分のざわざわするのを観たくないと思ったりすることさえも、ああそうなのか、とみることだ。と思った。