自分の感情を「なかったこと」にしてきたこと。

久しぶりに両親と食事をした。

母は、少し痩せたなという気がした。

母から「最近痩せたやろ?」と言われるが、うんとは言えなかった。言いたくなかった。

「どこがやねん」と笑って流した。母は、きちんと聞いてもらえないと思ったかもしれない。

 

だけど、私は、もし「うん」って言ったら、どれほど母が落ち込むかを勝手に想像し、それを否定した。

 

家に帰ってから、あまりにモヤモヤして、むかむかしてきた。

なんだこれは、また親のせいか、と思った。

 

ふと、「お母さんがいなくなるのは怖い」と思った。

そうか、私は怖いのか、と思った。

怖いからモヤモヤしてんのかと思った。

でも、モヤモヤはおさまらない。

 

ふと、私は「お母さんは確かに少し痩せたように見えた。でも病気だったら嫌だ。お母さんがいなくなるのは怖い」って本音では思った、と気づいた。

だけど、お母さんを励ましたくて、うそをついた。

そのことが、ずっと心に重くのしかかっていたのではないか。

 

思えば昔から、親を慰めたくて、平気なふりをした。なのに、冷めた子みたいに言われた。

親に褒められたくて、頑張った。なのに逆に心配された。

親を安心させたくて、頑張った。なのに逆に泣かれた。

私の意図は尽く思う通りに親を安心させることはなかった。

 

「こんなに(自分の意思とは逆なのに)頑張ったのに」って、なんか思ってた。

 

今日も、親を励ましたくて、笑って流した。

 

だけど、ほんとは、私は、心の中ではとても不安で、悲しくて、怖かった。

その思いを、私自身が「なかったこと」にしてしまったことに、私は心底腹が立って、心底絶望して、心底泣いてた。

 

私のことも抱きしめられないのに、一体、誰を抱きしめられるの?

 

自分の思いも受け止められないのに、一体誰を力づけようと、誰の話を聞こうと、誰の問題を解決しようとしているの?

 

そんなのただの弱虫のウソツキだ。

 

私は、そう思ってたんだろうな。ずっと、自分自身に対して。

 

親のせいでいつもざわざわするとか、親の過保護のせいで、親の心配性のせいで、じゃなかった。

親のせいではないだろうとは頭ではなんとなくわかり始めてたけど、ほんとにそうだた。

私が勝手に親の心配性をみこして、勝手にそれを安心させようと無理してた行為、それは、ある意味やさしいとも表現できそうだが、ただの怠慢だ。

 

人を喜ばせることが私の喜びだと思ってきたし、今もそんな気はするけど、私の本音はどうなのか。

 

まだ分からない。触れたこともない。

 

人を喜ばせることで得られる喜びしか感じたことがないから。

 

自分のチャレンジは、人が悦ぶと想定する範囲でのチャレンジだけだったから。

突拍子ないように思えることすらも計算づくだった。

 

自分に本気で向き合ったことがない。

自分が活きるときはどんな瞬間なのか。

自分が悦びを感じるのはどんな瞬間なのか。

そのうえで、自分は誰といたいのか。

つきつめたことなどなかった。

 

司法試験というそれっぽいものをクリアし、それっぽい知識とそれっぽい思いやりを持っていれば、この人生は安泰だとどこかで逃げ切りたかった。

 

でも、私の生はそれをさせてくれない。

 

正直に生きるしかないんだ。

 

正直に生きて、私が自分を満たすことが、自分が愛する人をも満たす。

言いたくないことも言わないといけないかもしれないし、

嫌われる場面もあるかもしれない。

それでも、それしかない。

 

この胸のモヤモヤは、35年間ずっとあった気がしていて、

やっと、わずかながら、ほっとしているようにも思える。

やっと気づいたか。やっとコントをやめたくなったか。そんな声が聞こえる。

 

あまりにしんどかったので、仲間に意見を求めてみたら、とてもあたたかくコメントをくれた。

信頼し、開示し、フィードバックをもらう。

それがすべてのスタートだ。