そもそも

私は、論理性も知識もなく、向き合う力も経験もなく、お世辞にも法律家に向いているとは1ミリも思えない。

この分野を選んだのはたまたま流れ着いたからだが、その根底にあった一つの感覚は、こんなの違う、というか、もっと違う形があるはずだ、というか、うまく表現できないそんな思いが強くあった。具体的に、何を、どう、なのかは分からなかった。

私は、日本の司法制度において、重大犯罪と決められている行為をした人を、殺して消すという方法をとっていることを、消化できていない。有罪と決まった人を刑務所に入れることも、「犯罪者」というまるでそういう人種がいるかのような言葉があることも、受け入れつつも、受け入れていない。「責任を取る方法」は、国が決めている。そんなことあるのだろうか。

物事にはいろんな側面があり、事情があり、偶然があり、タイミングがあり、完全な悪も善も存在しない。人間は不完全だ。でも、制度の在り方は、どこか、間違ったら終わり、という恐怖を植えつけることで、人のエネルギーが必要以上に開かないようにしているようにも思えた。また、世の中には何らかの答えや形が存在するとして、多様な在り方や創造が不可能であるようにも。

でも、人間は、論理で決めたことで分断されうる存在ではない。と感じていた。こんな考えは、被害者の方にはどう映るだろうかとか、だったら代替案の制度を示せよとか、自分の身内が殺されても加害者にそう言えるのかとか、何度も自分にも問い、そういう恐れや固定観念があったからこそ、誰かのそういった批判的言説ばかりに敏感に反応し、怖くて自分の感じていることを公の場所で発言できなかった。

自分で実践して、少しでも語れることができてからにしよう、と。少なくとも、司法試験に合格して、実務経験を積む中で、少しはただの思いつきではない何かを説得的に話せるようになるのではないか、と淡い夢を見て先送りにした。今もそれは続いている。勉強をすればするほど、固定観念と分断を重ねるようで、怖い。

今思えば、その自分のものの見方そのものが、私の世界を創り出している。批判を恐れ、隠れて先送りにして、何か形を得てそれを示そうとするたびに、私はその瞬間にある目の前のことから逃げる。感じることと、考えることが、どんどん離れていく。それをずっと続けてきたように思う。そして、何か明確な「解」が存在するかのような妄想。説得的な話し方、材料があれば、人に聞いてもらえるかのような妄想。それは、私の話は根拠がないから聞いてもらえない意味のないもの、という前提にある。そして、「関係」を無視した、勝手な解釈。

そして、これは司法に限ったことではない。すべてのことがそうだ。善悪に疑問を持ちながら、正しさに縋り依存していたのは自分だった。少なくとも、こうしていれば終わりではないだろう、という延命措置に似た感覚。それはつまらなくとも、そうして頑張って生き延びていれば、いつか変わるかもしれないという淡い期待。

そして、結局何年経っても、私の心の中は変わらなかった。私の原点は、なんでこんなことになってるのか気持ち悪い、と感じたそこにしかなかったからだ。それはおそらく、自分自身の生き方、見方への警鐘。

善悪を創り出しているのも自分。優劣も、上下も、有益無益も。そんな観念は、私の固定観念。難しい、無理だ、もそうだ。意味があるないも。

私は、こうしたものの見方を自分が無自覚に受け入れてきたプロセスに、心底腹が立ったが、それならば、今から、自分が変わるために毎日を生きればいいではないかと思った。