「人は変わらない」ということ

今日、ふと、ある人の意見に目がとまった。

その意見は、最近逮捕された、たくさんの人を殺したのではないかとされている人に関するもので、要約すると、絶対に変わらない人はいる、だから司法関係者は厳しく対応してほしい。自分もどうやっても変わらない部分があるし、変わらない人は変わらないのだから。というような趣旨に見えた。

それを見たときに、すごく気持ち悪い感じがしたのだが、なにがどうなのか分からなかった。

少したって、ふと、「変わらない人は絶対変わらない」という意見は、実のところ私が思っていることではないかと感じた。

つまり、自分自身に対して。自己はこういう人間だということにする、という癖を持つことで、変わらずに静かに生きてきたつもりだが、そこには、どうせ自分は変わらない、という強い思い込みがある。それを疑い、溶かしていく作業は、本当に地味で、なかなか前に進まない。例えば、呼吸をする、瞑想する、自分が反応した言葉を深ぼりする、お祈りをする、とか。そんなとき、どうせ変わらない、という信念を持っていれば、楽なのだと思う。

私はこの加害者とされている人に会ったこともないし、話したこともないし、だれがどう集めたかもわからない情報をもとに、「絶対に」とまで言い切ることはできない。でも、もし自分の想像を超えることを行動する人間がいて、その人が、どんな外的要因があろうと一切変わらない、と思ったらあまりに恐ろしい。そんなものはこの世にあってはならない。あってほしくない。自分を護るためには、それを排除することだ。

それは、いつも自分がよくやっている思考回路であるがゆえに、私が気持ち悪いと感じたのだろう。

「絶対に」という決めつけ。

その裏には、自分の頭で想像する以外のものが自分を脅かすことへの恐れ。異質なものが自分を脅かすことのリスクを最小限にすることを願って生きているのに、「こんな奴」に私の安穏を乱されてたまるか、という恐れとクソみたいな優越感。そんなものがある。そこには、ささやかな安心感と引き換えに、無限の歓びや悲しみを生き殺しにしている私の在り方がある。

法律家というのは、とても恐ろしい仕事だろうなと想像する。日々、自分を脅かされるような気持ち悪さや、反発、憎しみ、悲しみ、無力感。そんなものが去来するんだと想像するだけで、本当にちびりそうになる。他方で、それらの自分の安心を脅かしうる「負」の感情なしに、一体自分の何を知り、人生を味わえるというのだろうか。なぜ自分がそんな感覚を持っているのか、それは誰かの言ったことの受け売りではないか、固定観念ではないか、本当にそう思ってるのか。そんな問いを、毎日毎日。今以上に、リアルに。

心からの笑顔や、心からの涙や、怒りを、あらわし、本当に自分という人間が、そこに生きているといえるのか。という問いを。毎日毎日。

ということを突きつけられる。だから、やりたいというか、そこに関心がいきつく。けど、もはやどうでもいい。そんな話は受かってからであって、今は、今の自分の在り方を見つめるときだ。

試験勉強にしろ、仕事にしろ、人間関係にしろ、今の自分が自分自身に対して持つ固定観念を疑うところを無視しては、「~すれば世界が変わる」ではない。とかいいつつ、もう早く終わりたい。。