死刑

今日、死刑執行のニュースを見た。

とても嫌な気持ちである。

そんなものがこの世にあることを、できるだけ早く忘れたいという気持ちとともに、ここに何かがあるという感覚でもある。

なぜ嫌な気持ちになるのかを説明したくて、色々と考えてきた。

しかし、私のこの嫌な気持ちは、10年前と大して変わっていない気がする。

ロースクールに入ろうか、法律の世界へ入ろうか、そう悩みながら、

死刑のことをよく考えていた。

結局のところ、「死刑」を「問題」だという前提で見ている限り、何も変わらないのではないかと思った。

この世には、大きな抗えない権力があり、それは人間を支配しうるものである。

という幻想とか、

この世には、解決すべき「問題」というものが存在し、それを解決するのは素晴らしいことだ。人の役に立てることだ。

という幻想とか、

自分の人生に自信がなくとも、少なくとも、人の役に立てれば、生きる意味を持てるのではないか。

という幻想とか。

どれも、今ここに生きている私とは全く関係のないところにある「概念」に生身の自分が支配されているという前提の思考だった。

しかし、私は、そもそも、死刑のどこが問題なのか、仮に冤罪なるものがあるとして、誤った事実認定で殺されたとして、それの何が問題なのか。考えたことがなかったのだ。

こんなことを書くと、人でなしと頭で思う自分がいる。でも、勝手に人をかわいそうと決めつける思考は、何か大切なものを全く素通りする鈍感さを持つ。かわいそうなどと決められるものなど何もないと思う。

自分が全て決めている。私のことは私が。彼のことは彼が。それは、大きな力を無視するとか、そういうことではなく。「被害者」であることを選んできたのは自分だという意識を、私自身が自分に持たない限り、概念を疑うことができなかった。

救うべき何か、変えるべき何か、がある限り、私は、自分の癖を見つめずに済む。うまいことやってるようで、全くもってどうでもいいことをやっている。

それの何が楽しいのだろう、と思う。何にも楽しくない。つまらなさすぎて、目を開けたまま記憶が飛びそうだ。いや、既に、そうなってるともいえる。日々、一生懸命仕事をして、生きているぜ、と自分にアピールしたって、それは、ただ反応して、ただ作業してるだけのロボットと何が違うのだろうか。

私は、自分を見つめる勇気もないくせに、この世の中の正義とかあるべき制度なんてものを振り回そうとしてて、バカ丸出しである。

もうほとほとうんざりであり、どうでもいいや。正しくなくていいから、これはあかん、って頭で思うのを爆破したい。

私は、法律家になったら、今まで以上に「清廉潔白」であらなければならないと本気で思っていた。それって今も「清廉潔白」だって自負してるわけで、まじでキモすぎる。

ウソで自分を固めて、まともそうに見せる人生を生きて、何がおもろいねんやろ。

問題は外にはないのではないか。

今ここで、自分の身体が感じたことからスタートして、感じた問いを、持つ好奇心を、分からないことを探求していくことを、それこそを自分の中で最も優先すること。

だから、私は、なぜ自分が死刑執行に気分悪くなるのかを探求する。なぜなら、身体が反応するからだ。それをやらずに、どんなに「それらしい問題」とか「人の役に立つ」ことをやっても、死んでる。

死刑が問題ではない。自分が、死刑を概念で問題と決めつけてることに疑問を持てよ。悔しかったら現場へ行ってみろ。

「人は変わらない」ということ

今日、ふと、ある人の意見に目がとまった。

その意見は、最近逮捕された、たくさんの人を殺したのではないかとされている人に関するもので、要約すると、絶対に変わらない人はいる、だから司法関係者は厳しく対応してほしい。自分もどうやっても変わらない部分があるし、変わらない人は変わらないのだから。というような趣旨に見えた。

それを見たときに、すごく気持ち悪い感じがしたのだが、なにがどうなのか分からなかった。

少したって、ふと、「変わらない人は絶対変わらない」という意見は、実のところ私が思っていることではないかと感じた。

つまり、自分自身に対して。自己はこういう人間だということにする、という癖を持つことで、変わらずに静かに生きてきたつもりだが、そこには、どうせ自分は変わらない、という強い思い込みがある。それを疑い、溶かしていく作業は、本当に地味で、なかなか前に進まない。例えば、呼吸をする、瞑想する、自分が反応した言葉を深ぼりする、お祈りをする、とか。そんなとき、どうせ変わらない、という信念を持っていれば、楽なのだと思う。

私はこの加害者とされている人に会ったこともないし、話したこともないし、だれがどう集めたかもわからない情報をもとに、「絶対に」とまで言い切ることはできない。でも、もし自分の想像を超えることを行動する人間がいて、その人が、どんな外的要因があろうと一切変わらない、と思ったらあまりに恐ろしい。そんなものはこの世にあってはならない。あってほしくない。自分を護るためには、それを排除することだ。

それは、いつも自分がよくやっている思考回路であるがゆえに、私が気持ち悪いと感じたのだろう。

「絶対に」という決めつけ。

その裏には、自分の頭で想像する以外のものが自分を脅かすことへの恐れ。異質なものが自分を脅かすことのリスクを最小限にすることを願って生きているのに、「こんな奴」に私の安穏を乱されてたまるか、という恐れとクソみたいな優越感。そんなものがある。そこには、ささやかな安心感と引き換えに、無限の歓びや悲しみを生き殺しにしている私の在り方がある。

法律家というのは、とても恐ろしい仕事だろうなと想像する。日々、自分を脅かされるような気持ち悪さや、反発、憎しみ、悲しみ、無力感。そんなものが去来するんだと想像するだけで、本当にちびりそうになる。他方で、それらの自分の安心を脅かしうる「負」の感情なしに、一体自分の何を知り、人生を味わえるというのだろうか。なぜ自分がそんな感覚を持っているのか、それは誰かの言ったことの受け売りではないか、固定観念ではないか、本当にそう思ってるのか。そんな問いを、毎日毎日。今以上に、リアルに。

心からの笑顔や、心からの涙や、怒りを、あらわし、本当に自分という人間が、そこに生きているといえるのか。という問いを。毎日毎日。

ということを突きつけられる。だから、やりたいというか、そこに関心がいきつく。けど、もはやどうでもいい。そんな話は受かってからであって、今は、今の自分の在り方を見つめるときだ。

試験勉強にしろ、仕事にしろ、人間関係にしろ、今の自分が自分自身に対して持つ固定観念を疑うところを無視しては、「~すれば世界が変わる」ではない。とかいいつつ、もう早く終わりたい。。

外側にあると思ってた問題や矛盾は、自分。

自分自身が、結果が出る世界から逃げてきた口実に、調和だとか穏やかだとか愛だとか平和とかそんなことを少なからず利用してきたのだと気づき、びっくりした。

私は、争い事やぶつかり合うことが大嫌いで避けたいと考えているが、そもそも、そこに私自身の善悪のジャッジが大きくはびこっているという矛盾に全く気付かなかった。何が調和だ。泣きながら闘ってみろ。

どこまでも、自分の在り方に目を光らせ、研ぎ澄ます。

なぜ自分は出来ないとか考えるのか。なぜ苦手だと思うのか。苦手なことなんかない。向いてないとかも嘘だ。都合よくそう決めただけだろ。無心でトレーニング、1日のうち1秒でも増やしていく。

今日は、民法問題5問、刑法択一50問、憲法素読民法判例少し。

明日は、民法10問、行政法・商法・刑訴基本書→判例、刑法択一50問、民法素読

そもそも

私は、論理性も知識もなく、向き合う力も経験もなく、お世辞にも法律家に向いているとは1ミリも思えない。

この分野を選んだのはたまたま流れ着いたからだが、その根底にあった一つの感覚は、こんなの違う、というか、もっと違う形があるはずだ、というか、うまく表現できないそんな思いが強くあった。具体的に、何を、どう、なのかは分からなかった。

私は、日本の司法制度において、重大犯罪と決められている行為をした人を、殺して消すという方法をとっていることを、消化できていない。有罪と決まった人を刑務所に入れることも、「犯罪者」というまるでそういう人種がいるかのような言葉があることも、受け入れつつも、受け入れていない。「責任を取る方法」は、国が決めている。そんなことあるのだろうか。

物事にはいろんな側面があり、事情があり、偶然があり、タイミングがあり、完全な悪も善も存在しない。人間は不完全だ。でも、制度の在り方は、どこか、間違ったら終わり、という恐怖を植えつけることで、人のエネルギーが必要以上に開かないようにしているようにも思えた。また、世の中には何らかの答えや形が存在するとして、多様な在り方や創造が不可能であるようにも。

でも、人間は、論理で決めたことで分断されうる存在ではない。と感じていた。こんな考えは、被害者の方にはどう映るだろうかとか、だったら代替案の制度を示せよとか、自分の身内が殺されても加害者にそう言えるのかとか、何度も自分にも問い、そういう恐れや固定観念があったからこそ、誰かのそういった批判的言説ばかりに敏感に反応し、怖くて自分の感じていることを公の場所で発言できなかった。

自分で実践して、少しでも語れることができてからにしよう、と。少なくとも、司法試験に合格して、実務経験を積む中で、少しはただの思いつきではない何かを説得的に話せるようになるのではないか、と淡い夢を見て先送りにした。今もそれは続いている。勉強をすればするほど、固定観念と分断を重ねるようで、怖い。

今思えば、その自分のものの見方そのものが、私の世界を創り出している。批判を恐れ、隠れて先送りにして、何か形を得てそれを示そうとするたびに、私はその瞬間にある目の前のことから逃げる。感じることと、考えることが、どんどん離れていく。それをずっと続けてきたように思う。そして、何か明確な「解」が存在するかのような妄想。説得的な話し方、材料があれば、人に聞いてもらえるかのような妄想。それは、私の話は根拠がないから聞いてもらえない意味のないもの、という前提にある。そして、「関係」を無視した、勝手な解釈。

そして、これは司法に限ったことではない。すべてのことがそうだ。善悪に疑問を持ちながら、正しさに縋り依存していたのは自分だった。少なくとも、こうしていれば終わりではないだろう、という延命措置に似た感覚。それはつまらなくとも、そうして頑張って生き延びていれば、いつか変わるかもしれないという淡い期待。

そして、結局何年経っても、私の心の中は変わらなかった。私の原点は、なんでこんなことになってるのか気持ち悪い、と感じたそこにしかなかったからだ。それはおそらく、自分自身の生き方、見方への警鐘。

善悪を創り出しているのも自分。優劣も、上下も、有益無益も。そんな観念は、私の固定観念。難しい、無理だ、もそうだ。意味があるないも。

私は、こうしたものの見方を自分が無自覚に受け入れてきたプロセスに、心底腹が立ったが、それならば、今から、自分が変わるために毎日を生きればいいではないかと思った。

なぜルールを守るのか

数日前に、同じ部署の人たちとお昼ご飯を食べにいって、そこで話していた時に、そのうちの1人が、「昨日定期を落としたのだけど、家にいたら鉄道会社の人から電話かかってきて、それで気づいた。びっくりした。」というような話をしていた。


そして、アフリカのどこどこでは、ルールは破ってなんぼだからね。ともいっていた。


そして、ふと、なぜ日本はこんな風になってるんだろうね、という話になった。なぜ、ルールを遵守することがある程度重んじられる社会になっているのだろうか。

それは、同調圧力やはみだしたら罰せられるから、とか、ルールを守るのが「良い」と教えられる洗脳だ、などと思っていたが、果たしてそうだろうか?


何となく、何かもっと上位の、何かがあるのではないかと感じている。

それは、法というものに対する私の冷めた意識とは裏腹に、そこに何かがあるという直観にも近い。表現できないけど、何か大事な何かがここにある。それは、今の自分には見えないし、言語化できない。ああ、くそう。


経験と試行錯誤と思考を重ねた先には、何かが見えるのかもしれない。


そもそも「解決すべき問題」というのは、誰が作ったものなんだろう。ただ、ルールさえみんなが守ってりゃいい、というのではない。そこには意思がない。


たしかに、物を盗まれたくはないけど、それを「問題」とすることで得られるものと、失われるものがあるのかもしれない。何にせよ、その二元論の評価から離れたところで、意思をもって行動することしかない。


何にせよ、それしか思いつかない現在。現場に出たい。昨日、夜中にとぼとぼ歩いて帰っていたら、すごい勢いのパトカーとすれ違ったのだが、なんだか武者震い?した。そっちに行きたいのか、行きたくないのか知らないが、なんにせよ、空想の世界から一刻も早く出たい。

「なぜ、現場に行きたいのに、行かないのですか?」

と、心底不思議そうな顔をして、言われた。

真正面から、「あなたがしたいのは本当にそれなんですか?」と聞かれた。

それも、批判ではなく、心底、不思議そうな顔をして、僕はそうは思えないんですけど、と。

彼は、世界で特に危ないとされているところに、ポストを見つけて、行くという行動を具体的にしている。自分の過去の体験を動機として。

私はその話を聞いて、生きている実感を得るために、危険な場所に行って、自分の仕事で何とかしてやろうというのは、とても危なっかしいと考えた。「安易」と。過去の経験が動機だなんて「安易」と。私は、自分自身にもそう思っている。だから「安易」という言葉が大嫌いだ。

そして、実際行ったら何ができる?テロリストが跋扈している地域で、所詮日本人に何ができる?拘束されて人質にされて惨殺されたらどうする?それよりも、もっと一歩引いたところで、地盤を固めるような行動があるのではないか?

と。

だけど、どうだろう?

私は、彼が羨ましかった。別に、同じポストに就きたいというわけではないし、その国に行きたいというわけでもない。

でも、私は、自分の思ったとおりに、行動をしている彼が、うらやましかった。

だって、リアルだもの。やるのも自由、やらないのも自由。家族を理由にする人もたくさんいる。でもそれも選択なのだ。

そんな彼に、あれこれ自分の仕事の話をしてみたが、改めて言われたのが冒頭の言葉だった。

何度説明しても、それっぽいこといっても、とても不思議そうに首をひねっていた。最後まで。

で、「それ、試験に合格しても、同じこと言います?」って言われ、苦笑した。それはないわ、って。

私にとって今大事なプロセスは試験なのだ。それを、どうして隠すのだ。隠して、あたかも日本にいて、今している仕事がとてもやりがいがあると。いや、完全なる嘘ではない、ような気がする。与えられたどんな機会から学ぶ姿勢が必要という思いもある。

でも、ここで言いたいのはそういうことではなくて、何となく嘘をついている。それが自分の存在を大々的に曖昧にし、最大限にフラストレーションがたまっている。自分を信頼できない理由もそこにあり、自分自身で魂が震えない。

私は、テロリストといわれている人たちが、どういうことを考えているのかにとても興味がある。

そもそもそんな人たちがいるの?

私はテロをしたいと思わないけど、たとえばある行動をテロと言うとしたら、その主体からしたら、それは何か意図があるはずだから。

そこにある多く自分には見えてない事実を見ないで、テロ撲滅という正しい行動があるとは思えない。

情報収集が、全くできていない。

テロリストなど世界にどんだけいるか分からないし、報道されていないものや、コミュニティから外に発信されていない行為なども色々あるとしたら、私が知りうることなどたかが知れている。

場合によっては正義面してるやつこそが悪玉で、いずれにしてもそんなやつらに近づいたら、相手に取り込まれて終わりだ。私みたいなちょろい人間に何ができる。どうせ斬首される。そういう思いが湧いてきて、終わり。

でも、知りたいんだね。善悪二元論に陥っている自分のままでも、前に進みたい。それだけだったわ。

調べたらいい。話を聞いたらいい。やっていい。誰の承認もなしに、やっていい。当たり前だ。危険な場所?親の承認?命の無駄遣い?

私は、テロリストという人がいるとしたら、その人がたとえどんな行動をしたとしても、自分と同じ人間であると感じている。

そして、私自身が、明日には、テロをしているかもしれないという感覚を、持っている。

それは、分からないから。

そんなことは考えたくはない。

人間は、愛である。そうだろう。

でも、愛であっても、何でもしうる。

なぜだろう?

じゃあ、どうするのか?

一つの具体的行動として、私は、世界で極悪人とされる人たち、たとえばテロの首謀者や戦争犯罪人の弁護人をやりたい。私の理性はそんなこと1ミリも望んでいないし、できることなら避けたい。やめてくれと思っている。

しかし、世界で悪とされる人が、一体どういう人なのか。何をやったのか。どうしてそれをやったのか。そうして、同じ人間として自分がどう感じるのか。どういう智慧を持って、道具をもって、自分がその事に対するのか。それに挑戦したい、という思いが同じくらいある。

いつもそんな思いが湧くと瞬殺してきた。そんな思いこそ、善悪二元論に走ってるだけ。安易。アホ。平和ボケ。司法試験にすら受からないのに・・といつものディスリ。でも、そんなこといいから、前へ進め。

あなたはその命をつかって、何をやろうとしているのか?それを突きつけてもらった夜だった。