作られた自分からの解放

最近、Tさんとのやりとりの中で、「下顎に力を入れないように」と言われて、注意を向けるようになったら、いかに噛みしめているか、またさらに、私はぐーっと噛みしめて我慢する癖がついていて、舌の両脇を噛んでいることにも気づいた。

 

全く、気づいてもなかったことに驚いた。

こんな痛いことずっとしてて、なんで?って思うけど、それが現実。

それほど、自分の身体や感覚への観察がなかった。

頭で考えた「こうに違いない」を握りしめて自分を断罪したり、これじゃだめだと焦ったり、どうせ私はだめなんだと思ってた。

 

でも、翻っていえば、それくらい身体に無理な癖をさせて耐えられるようにしないと、その私の思考は保てないというくらい不自然だったのではないか。

本当ではないことを勝手に妄想して信じ込んで、誰に言われたのか、いつ自分が選んだのかも覚えてないが、「司法試験は1回で受からないやつはゴミ」とか「太ってる女は醜い」とか「結婚して子供を持って仕事もしている女性は優秀だ」とか「仕事は速く効率的にできるのがいい」とか「嫌なことは口に出さずに、慈愛の精神で生きるのが思いやりだ」とか「論理的でないやつの話は説得力がない」とか。

 

なんだかよく分からないけど、もう数えきれないほどの、おそらく現行で存在する法令の数よりも多いのではないかと思うほどの、「ねば、べき」を振り回して、自分を「はいだめ」「やっぱりだめ」「どうやってもだめ」と言って、努力して苦しんでるふりして、ただ、一人遊びしてただけなのかもしれない。

 

そこには意思がなかった、というのは、日野先生をはじめとするぶぜんのみなさんに指摘してもらって、初めて気づくことになった。はじめて参加したのが去年の7月だから、もうすぐ1年。それでもやっと肚に落ちてきた。

 

つまり、生まれてからこれまで、ひたすら作ってきた自分の価値観。自分自身。

それを、解放していくことが、これからの人生だ。

一体何をしてるんだという気もするが、それは恐らく、私一人の自作自演にとどまらず、いろんな人との共鳴や広がりがあるだろうと想像する。

 

それにあたって、Tさんから、「それは思考のせいだ、とかまた一括りにしたらあかん。もっと緻密に自分を観察することや。なんでそうして、なんでそう考えるのか。それが作られた自分からの解放や。」と言われて、はあああ!って。

 

結局、答えを欲しがってる背景には、目の前のものを(答えが分からないかもしれないけど)見る、という覚悟が必要であるところ、それがあまりにめんどくさく、また、人に称賛されるものでもないし、仕事に使えるわけでも、履歴書に書けるわけでもないので、そんなこと(身体の観察)してもしょうがないってどっかで思ってたからや。そんな暇があったら、1問でも解いたら、って。

 

しかし、そこから逃げて答えを持って安心している以上は、自分が課題を持って、新たな価値を創造していくことは絶対にできないと思う。

自分が依存しているもの、頼ってきた安心感、縋りついてきた妄想。それらもただニュートラルに観察できるようになってはじめて、じゃあどうする、が生まれるし、そもそも、なんのために、がないと何もないってことにも気づく。

 

私は、自分自身が欠陥人間だと思い込んできて、特に、職場や勉強で頭が真っ白になるのだが、それは、自分の頭に限界があるからだ、と思ってきた。強く信じてきた。どうせ、って思ってた。

 

でも、それすらも、嘘ではないか。別に頭がどうこうとか、そういうことではなくて、頭が真っ白になることすらも、上述の噛みしめや舌噛みと同じように、自分を保つための身体の反応や癖だとしたら?

 

そもそも、まず目を向けるべきは、保たなければならないほどの不自然な前提を疑うことではないか。

 

親の目。社会の目。

失敗してはならない。間違ってはならない。頑張らないといけない。完璧でないといけない。

 

そんなものがもし私の中になければ、私は一体何をするだろうか。

自分の変化や動きに夢中になってもいいとしたら(今はそれを考えるだけで、そんな無駄なことをして!という罪悪感)、もっと自分に集中できたら?

 

目の前の人にも集中できるようになるんじゃないか

 

自分を大切にすることが、相手も大切にすること、という言葉を頭では理解していたけど、結局、自分にできないことを、他人にできるわけがないし、他人の細かい機微をも尊重したいのならば(またそれがないことも尊重したいのならば)、自分を徹底的に大切に見つめることが先だった。

 

例えば、今日のように、「ああ、やっぱり思考のせいで舌まで噛んでた!」って簡単に一括りに決めつけた自分は、他人がそういう話をしてても、「そうそう、思考よね!」で終わらせるだろう。

 

そんなわけがない。他人と自分は違う。違いを尊重し、違うことで、関わり合いに奇跡が生まれるのだとすれば、今の私のスタンスではその実現は望めなさそうだ。

面白くない!

なんて面白くない世界!

 

身体ってすごい。論理なんかただの枝切れ。

枝切れを使いこなすのも、身体。そして、意識か。

 

そういえば、Tさんは、噛みしめ癖について、脳の情報とあわせて、不満なども混ざってる、と言ってた。

うわあ。

 

今朝起きたとき、下顎が少し楽だと感じた。今はだいぶ、have to do somethingがないからな。

もっと、やるべきことを捨てていこう。

 

勉強も、いかに、やるべき、から離して、ゲーム感覚でやれるように、計画してみよう。