【332】人から助けてもらう形に依存していた。自分の願いを中心に置いたうえで助けてもらわないと、麻薬にしかならない。
ローの在学中から、いろんな先生にお願いして、ゼミをみてもらったり、答案をみてもらったりした。
とてもありがたいことだったけど、私はその機会を自分のために活かすことができなかった。
なぜなら、自分がどれだけ優秀な指導者に認められているか、を自分の存在意義を確認する材料にしてしまったから。恐怖から。不安から。罪悪感から。間違うことを極度に恐れた。
やれることはやったけど、それは自分の力をいかして、この世に発信するため、ではなく、自分が自分を保つためだった。
だから、麻薬のように、ひらすらいろんな人にいろいろお願いした。
なにかが違う、そのパーツ自体はよくても、なにかが全体的に決定的に違う、そう感じていた。
私は、「偉い先生」「上位合格者」の話にすぐに揺らぐ、典型的な「受からない受験生」だった。
そこに、自分の意思がないから。
結局、いろんな情報をいただいたとしても、最後に信じるのは自分の感覚だけ。
そうあるべきだったし、今からそう変わるのだと決意した。
過去の(現在まで続いている)意思のない状態にあったときの建設的な意図は、自分を守りたい、安心感がほしい、だったのかもしれない。だとしたら、安心感を得る別の方法を具体的に打ち出す。
論理だろうがなんだろうが、そこの根幹は、借り物の論理ではなく、絶対的な生命の声でなければならないと思う。
そうでなければ、既存のものを疑うこともできないし、同時に、既存のものを攻撃するだけにもなってしまいかねない。
自分がどうありたいのか、そのためになぜこのツールが必要なのか、不明確な部分があってもそれはそれとして、やると決めるのか決めないのか。ただそれだけだ。
かつて尊敬している医療者のNPOを訪問したとき、そこにいた一人の人から、
「なんで法律の人がここにいるんですか。」ときかれて、
「命にかかわることだからです」といったら、
「え?法律って命に関係ないですよね?」といわれ、
私はそれに「え?関わりますよ」とふつうに言うことができずに、
「まあ。。」とごまかした。今も、あの情景を想い返すと、胸がきゅうとなる。
なんてことないふつうの会話。
でも、自分が許せなかった。
というか、わたしは信じ切れていなかった。この道が、人の命にかかわるということに。
それを、表現するための言語を持ち合わせておらず、そこで、甘んじた。
言語化。
到底言葉にできないことを、言葉にしようとすることが不遜なのかもしれない。暴力的とも思い上がりとも思える。
また、自分の中に、まるで特別なものがあるかのように考えているようで、滑稽な気もする。
でも、言葉にできないんだ、と、まるでそのことを尊重するかのように言いながら、実のところ自分の身を削ってでも言葉を絞り出してやるという自分への信頼を投げ捨てていた。
いつか何かに気づいて言語化できるようになるかもしれない、と数年を過ごし、「やはり、意識してやろうとしないとできないんだ」と最近気づいた。だって、恐怖から生きてるモードを変えないと本音が出てこない。
私は、なぜ自分が法律家を目指そうとしているのか、今もよく分かっていない。
ただ、そんなことは別にどうだっていい。
迂遠な、他人からの承認や、頑張ってるアピールや、形ある資格や肩書など、もうそんなことで自分を埋めようとする時間の無駄をやめて、
自分で自分の道を言語化していくために、今がある。
現場に身を置き、ジャッジメントにあふれ、ときにはそれが必要とも思える場所にいながら、どこまで自分の感覚に集中し、それを説明するための材料をさがしてきて、言語化できるか。
それってなんだよ、と自分突っ込みもするが、そんなん今はわかない。それでいい。
自分にできないことや、自分がやらなくていいこと、人にやってもらったほうがいいこと、などを自動的に思考なしで明け渡して、自分の道に集中したい。
司法試験は、知識インプットと事務処理能力が必要になる。それは、本当に自分に集中できるか、それを試されている準備体操のようなもの。
準備体操で、私これに向いてない、ってありえないやろ。言い訳してんじゃねえぞ。
本気でそれを腹にとすために、私は、TTを受講した。
なんでかよくわからないが、命と論理の交差点のように感じた、のかな。
向き不向きはこの世にあるだろうが、それを凌駕する意思があるとき、人は何とかするもんだ。
本気で腹に落とせたら、今までと違う行動をとる。
合格するために必要な具体的行動。
そう思って、今日は予備校に相談にいってきた。
自分のこれまでの試験に関する行動を文字にすると、なんとも情けない。苦笑しかない。
しかし、現時点を明らかにしないと、何をしたらいいかも分からない。
そう思って、いろいろ書いた資料を作って講師の先生に渡してみていただいた。
限られた時間だったけど、アドバイスをもらえて、よかった。
そして何よりよかったのは、そのアドバイスを鵜呑みにしなかった自分がここにいると感じたこと。
もう、人からのアドバイスや助けを、麻薬として使わない。
「安心感」を得たい意図からすれば、そのとおりやったほうが安泰なのだが、本質的な安心感は、自分が合格するための情報として、主体的に取捨選択することからしか生まれないはず。
ここから、はじまり。