「なぜ、現場に行きたいのに、行かないのですか?」

と、心底不思議そうな顔をして、言われた。

真正面から、「あなたがしたいのは本当にそれなんですか?」と聞かれた。

それも、批判ではなく、心底、不思議そうな顔をして、僕はそうは思えないんですけど、と。

彼は、世界で特に危ないとされているところに、ポストを見つけて、行くという行動を具体的にしている。自分の過去の体験を動機として。

私はその話を聞いて、生きている実感を得るために、危険な場所に行って、自分の仕事で何とかしてやろうというのは、とても危なっかしいと考えた。「安易」と。過去の経験が動機だなんて「安易」と。私は、自分自身にもそう思っている。だから「安易」という言葉が大嫌いだ。

そして、実際行ったら何ができる?テロリストが跋扈している地域で、所詮日本人に何ができる?拘束されて人質にされて惨殺されたらどうする?それよりも、もっと一歩引いたところで、地盤を固めるような行動があるのではないか?

と。

だけど、どうだろう?

私は、彼が羨ましかった。別に、同じポストに就きたいというわけではないし、その国に行きたいというわけでもない。

でも、私は、自分の思ったとおりに、行動をしている彼が、うらやましかった。

だって、リアルだもの。やるのも自由、やらないのも自由。家族を理由にする人もたくさんいる。でもそれも選択なのだ。

そんな彼に、あれこれ自分の仕事の話をしてみたが、改めて言われたのが冒頭の言葉だった。

何度説明しても、それっぽいこといっても、とても不思議そうに首をひねっていた。最後まで。

で、「それ、試験に合格しても、同じこと言います?」って言われ、苦笑した。それはないわ、って。

私にとって今大事なプロセスは試験なのだ。それを、どうして隠すのだ。隠して、あたかも日本にいて、今している仕事がとてもやりがいがあると。いや、完全なる嘘ではない、ような気がする。与えられたどんな機会から学ぶ姿勢が必要という思いもある。

でも、ここで言いたいのはそういうことではなくて、何となく嘘をついている。それが自分の存在を大々的に曖昧にし、最大限にフラストレーションがたまっている。自分を信頼できない理由もそこにあり、自分自身で魂が震えない。

私は、テロリストといわれている人たちが、どういうことを考えているのかにとても興味がある。

そもそもそんな人たちがいるの?

私はテロをしたいと思わないけど、たとえばある行動をテロと言うとしたら、その主体からしたら、それは何か意図があるはずだから。

そこにある多く自分には見えてない事実を見ないで、テロ撲滅という正しい行動があるとは思えない。

情報収集が、全くできていない。

テロリストなど世界にどんだけいるか分からないし、報道されていないものや、コミュニティから外に発信されていない行為なども色々あるとしたら、私が知りうることなどたかが知れている。

場合によっては正義面してるやつこそが悪玉で、いずれにしてもそんなやつらに近づいたら、相手に取り込まれて終わりだ。私みたいなちょろい人間に何ができる。どうせ斬首される。そういう思いが湧いてきて、終わり。

でも、知りたいんだね。善悪二元論に陥っている自分のままでも、前に進みたい。それだけだったわ。

調べたらいい。話を聞いたらいい。やっていい。誰の承認もなしに、やっていい。当たり前だ。危険な場所?親の承認?命の無駄遣い?

私は、テロリストという人がいるとしたら、その人がたとえどんな行動をしたとしても、自分と同じ人間であると感じている。

そして、私自身が、明日には、テロをしているかもしれないという感覚を、持っている。

それは、分からないから。

そんなことは考えたくはない。

人間は、愛である。そうだろう。

でも、愛であっても、何でもしうる。

なぜだろう?

じゃあ、どうするのか?

一つの具体的行動として、私は、世界で極悪人とされる人たち、たとえばテロの首謀者や戦争犯罪人の弁護人をやりたい。私の理性はそんなこと1ミリも望んでいないし、できることなら避けたい。やめてくれと思っている。

しかし、世界で悪とされる人が、一体どういう人なのか。何をやったのか。どうしてそれをやったのか。そうして、同じ人間として自分がどう感じるのか。どういう智慧を持って、道具をもって、自分がその事に対するのか。それに挑戦したい、という思いが同じくらいある。

いつもそんな思いが湧くと瞬殺してきた。そんな思いこそ、善悪二元論に走ってるだけ。安易。アホ。平和ボケ。司法試験にすら受からないのに・・といつものディスリ。でも、そんなこといいから、前へ進め。

あなたはその命をつかって、何をやろうとしているのか?それを突きつけてもらった夜だった。