自分の「欠陥」と思う事象が目前に現れたら、ただ不思議に思って流す。

自分の「欠陥」、それは、人前で話すと、段々声が震えてきて、息が、声がでなくなってくること。

必死で隠して、話しながら立ったり、座ったり、人に意見を求めたり、いろいろやって、誤魔化し誤魔化し、やってきた。講義を、早口でばーっと話したり(声が震える前に話し終わる)、わざとゆっくり話してみたり。司会も、できるだけ抑揚なく、ばーっと話す。速く言い終わりたい、と。

内心は、こんな「欠陥」がばれたらどうしよう。ってか、丸見えだが。

人を前にしていることが全く欠けている、ということも頭では理解している。人と関わってるんだ、ちゃんと人と・・・と思うと、さらに、声が震える(と勝手に思っている。)。

今日もまた途中から声が震えた。息がつまって声がでなくなってくる。震えるのを隠すために、しゃべってることが支離滅裂でどもる。もういや。

だけど、もう、あきらめた。

しょうがないじゃん。いろいろ考えて、いろいろ試したけど、声震えるんだから、しょうがないわ。他の誰もこんなんなってないけど、こんなんいややけど、しょうがないわ。

なんでかわからんけど、不思議やな、と流すことにした。

これが私の「欠陥」とか「直すべきもの」と思ってきたこと自体が、あらゆる事象を自分の「不足」に結び付けて考える癖なのだとしたら、どんな状態であっても、それを評価するのをやめた。

ただ、正面から行くだけやろ。

てか、気にするのは、形ちゃうやろ。

それより、声が震えてもいいから、今、言葉にする。

教科書みたいな書いてある知識をしゃべるんじゃなくて(今日はそんな内容だったから余計不本意)、自分の持つ疑問や、自分の体験したことを通して今持っている意見、調べたことを通して持っている意見、それを、「今」出す。

整理できてから、ではなく、今、出す。

今の私の考えはこうです。を毎日出す。

明日は違うこと言ってるかもしれないから黙ってた。それの何がだめやねん。

出せや。

お前は、何がしたくて、何でここにおって、これやってるねん。言えや。

声が震えてようが、身体が震えてようが、倒れようが、何でもええから、絶対肚の中のもん出してやるっていう決めだけや。

それでクビになっても、哀れと思われても、しゃーないわ。

そんなんでよく法律家なろうと思うよな、とみんな思ってる、と勝手に思ってる。自意識過剰や。それを言い訳にして決めない状態に安住しとるだけや

声が震えてもやってやる。ただ、それやろ。

型があるから自由に表現できる

私の数年来の悩みは、自分はなぜこんなにポンコツで、バカで、法律が理解できなくて、論文問題がとけなくて、論点さえも理解できないんだろう。だと思っていた。人ができることができない人間。

私の問題は、法律という型を身に着けられないこと、それを使って応用できないこと、に向けられていた。

が、全くもって茶番な気がしていた。

が、できないことは客観的事実だし、と結局そこに戻っていた。

私の会社には、規程が山ほどあって、知らない手続だらけである。

いつだって、分からない規程や手続を知って、その射程範囲を理解して、今自分が直面していることをあてはめて、誰かに相談して、やる、という作業が求められる。

それが、すんごいストレスだったのだ。

なぜなら、私は、そもそも、人ができることができず、型を身に着ける能力がない人間、と思い込んでいるからだ。型(規程や手続)を知らないこと、運用方法、応用方法が分からないこと自体が自分の欠陥、と直結する思考回路にあったからだ。

知らないものは知らない。当たり前だ。

でも、型は(少なくともある程度の)趣旨目的があって存在している。だから、それを知って、不要なら変える。要なら、それにのっとって、じゃあ今回はどう使うのか、を考える。そこではじめて、自分で考える、が出てくる。

なのに、私は、あろうことか、型のとこで止まっている。まだ法律にも、現実にも触れてなかった。

型を身に着けられないことが悩み、などありえない。というか、それが悩みになる程度のことなら、さっさとやめたほうがいい。でも、どうしても気になるなら、やるしかないだろう。

そして、もし本当に、私なんかにできやしない、と思っているなら、とことんそれを証明してやればいいではないか。それを証明したいとしても、結局、型を身に着けて、考えてみる必要がある。やりもしないで、私には出来ない、なんていうのは、そもそも証明にすらなっていない。

ただ、何もしていない、だけ。

なんでそう思ったかというと、昨日、ずっと、よく分からないままやっていた社内の手続が、ふと肚に落ちたとき、すーっと視界が広がり、じゃあこんなこともできるだろうか、あんなこともできるだろうかと、中身のことを考えている自分に気づいたからだ。型の悩みを通りこえて、はじめて、はじまる。

自虐自責の癖は随所に現れる。良かれと思ってやることにこそ。

自分の癖は自虐や自責をして、訳の分からない問題らしきものを作り出し、悩んで時間を浪費するということだ。そして、それはいわば「なんでもいいから、このざわつく感覚から逃れたい」という妄想によって作り出した緊急的なものなので、自分エネルギーや動機とは関係ない異物で、なぜ自分がこれを悩んでいるのかすら分からなくなり、解決不可能な大問題かのように錯覚することとなる。実際は、何も起こっていないし、何も始まっていないのだが。

それを日々の中で、ちりばめているのだろうが、癖は安心とつながっているため、なかなか気づけない。またやってもうてた、と気づく時は大抵人と関わったときだ。先日、上司に言われて気づいたことがあった。

ある寄稿のために文章を書くことになっていたが、私は色々考えたがもううまく書けなくて、イライラしながら、どこか妥協しつつ提出した。とりあえず最低限の体裁を整えなければ、どうせ誰も読まないが、もし批判的な人が読んだら問題になるような文章は避けなければ、などと考えていたからだ。

私は、自分の属する組織(もちろん自分自身も)が問題にさらされないように、と、そんなことを考えているつもりだった。だから、今回の文章を提出するときにも、上司に、そういう観点で私の文章がこんな風に見られたりして、批判を受けないかも含めて、確認をお願いします、というようなことを伝えた。良かれと思って。

そしたら、

文章を読んだあとに、「自虐はやめてください。」

と言われた。

そのとき、私は、うわあ、またやってもうた、と思ったが、待てよ、なんか良い自分、みたいなのに、自虐自責がべったりくっついてるんか?と思うと、とても衝撃的だった。

それは、自分自身の認識としては、「一生懸命に取り組んでいる自分、あれこれ配慮している自分」というそれっぽい傘をかぶることで、まるで何かを主体的にやっているかのような錯覚に陥りつつ、他人には、完全にその根底にある自虐、自責、どうせ私がやってもだめだ、あきらめ、つまらない、というのが、筒抜けということだ。主観と客観が完全に乖離。

なんということだ。

そして、褒めてもらった言葉を、それが、どうせ全員にいってるんだろ、とか、褒めてりゃいいと思ってんだろ、とか、また自虐の道具にしている。そして、批判はもちろん自虐に最適なので、すぐ採用する。

ありがとうございますと、何でもいいから全部受け取る。まずはそこからだ。むずがゆくて、こいつ社交辞令を本気にしとるアホやと思われてるだろうか、などと考える暇があったら、何でも受けとって流す。

だって、他人の言葉は、ただの言葉やんか。勝手に意味づけて利用してるのは自分だった。

そうして、昨日は、私を責めてくると思っていた人に、決裁のコメントをもらったのだが、もうびっしりコメントが入ってて、前なら、うわあまたこんなに批判してきた、どうせ私は思慮が浅いんだよ、とか思っていたけれど、ただ見て見たら、これらの言葉はこの仕事を少しでも良く進めるためのヒントである、と。しかも、自力ではみれない観点を、その人の時間をつかってくださっているんだな。と思った。めんどくさいけど有難い。

人の意見を聞くというのは、そういうことであって、とにかく褒められようとしたり、批判されないようにしたり、とかっていうのは、「で、何をするためなん?」がなにもなかった。

何にせよ、今回、仕事で文章を書いてみて、私は文章書くのがやりたい、と思った。ひとつの感情的な動きとして、相互のエネルギーの行き来、のようなものがあった。毎日仕事でやりとりをしている方に、事前に自分の文章のドラフトを見てもらったのだが、思いのほか、その人が、力作だ、今後の自分の資料作成の参考に使いたい。と言ってくださったのが嬉しかった。そうして、何となく、その人と自分の間に暖かいものが動く感覚を覚えた。これは勘違いかもしれないが、私は、仕事なんだから、と、良かれと思って(また)、自分の思ってることを出さないが、相手は、私が何を思っているのか、全然分からないし気持ち悪いと思う。今回、文章を通して、少し交流できたのかもしれない。リスクをおそれて、表に出ないこと。それは、安心かもしれないが、歓びには通じない。

それに、私は、誰かの役に立ちたい、という思いを、安直な承認欲求、と自虐して否定してきたけど、こうして狙ってもいないのに結果的に誰かの作業の参考になりうる、というのは素直に嬉しいことだった。やはり、私は、誰かの役に立ちたいと願う。

従前、日野先生が、「表に出てください」と言ってくださったことを、思い出す。

もっと、良く分からない感覚、を1文字でも文字にするために、人と関わりを持ち、体験を文字に還元する。

何か感じることがあるから、それを具現化したくて勉強している、なんて当たり前ではないか。

まるで特別なことかのように思っていた自分がいた。

私には、何か感じるところがある、みたいな、自意識。

あるだろ、そりゃ。人間なんだから。なのに、それはなんか海溝の底に埋まってる財宝みたいに思ってたわ。どこかで、それを具現化、実現できなくても仕方ないという留保を残すためなのか。

当たり前に、目の前のことをやる。今を感じる。それが、できない、あれこれ考えてしまう、過去の記憶にひっぱられる、それは、癖なのだ。私はこんな無為に時間を過ごしてしまった、、とまた落ち込む材料にしている間は、何も進まない。

当たり前のことを当たり前にやる。その中で、それはただの当たり前のことではないと気づく時が来る。のだろうが、私にはそこまでやり切った経験がない。

だから、今やっている。何歳だからとか、結果がでないとか、どういう環境だからとか、忘れるまで、やり続ける。

そして、そのやり方として、単に不足感からくるコミットメントや自己犠牲から長時間やってるだけ、から、どうすれば求められることに対してアウトプットできるようになるか、という工夫をすることが当たり前になってくるはずだ。

うわべだけ。付け焼刃。形だけ。情けない。

それは幻だ。今ここから、違う行動を選べる。

集中すること

司法試験など、集中すれば受かるのに、自分は一体何をやってるんだろう。なぜ集中できないのだろう。あれこれ傷ついて恐れてしまい、何度読んでも理解できないのか。

私がこれまで何万回とやってきた思考はこれだ。

それが無意味だということも頭では分かっているし、その状態が集中していない、ということも分かっているから、自分を責めて、悪循環だった。

昨日試験を受けて、今日感じたことは、「できない自分はだめだ」という思考が集中しない状態を創り出している、ということだ。

そんなことも頭では分かっているはずだった。でも、どうせ自分はセルフイメージを変えられない、なぜなら自分はできないし、だめだから、とまで思い込んでいた。

私は、変わりたくなかったのだ。

なぜなら、変わるためには、できない(と思う状態の)自分を明らかにしなければならない。できない=悪、無価値、と思っている限り、その状態には耐えられない。

結局は、その思考のループを棄ててでも、これだけやってきたのにという執着を棄ててでも、自分がやり遂げたい、と思う対象がない限り、従来のループから出ないという選択をする(してきた)。

私は、もういやだ。できないことを隠す自分も、できないくせにできるみたいな顔する自分も、できないように見える他人を断罪することも、何より、毎瞬目の前のことに素直に全開でいられず、間違うことを改善のチャンスと喜べないことも、ほとほと嫌なのだ。全力で失敗したいのだ。

「できない自分はだめだ」を棄てたいのに全然できない自分はどうしたらいいのか、とずっと考えていたが、それを棄てずに済む場所にいることを選択し、自分を筆頭に、他人や環境や事象をずーっと批判して自分の安全を守りつづけているから、今の自分の状態をクリアに見ることができなかった。

ただ、心底自分に絶望し、変えられるのは自分しかいないと気づくことだった。そして、変わりたい、というか、ただ試験を全力でやり切りたいと心から正直に決めることだった。

集中はその結果自然についてくる、と思う。

私は今からこれを食べます。これを飲みます。この本の○ページを読みます。

自分の存在がとても曖昧だと改めて痛感したので、今に集中するために、自分の行動を意識的にやることにした。

まずは、起きるとき。ご飯をたべる。お茶を飲む。本を読む。音楽を聴く。思いつく限り、私はこれをやります、と決めてからやる。

やってみると、驚くほどにいつもぼんやり行動していることがわかる。

知らない間に、座り、本を開いたり、足を組んだり、暖房をつけたり、ネットを見たり、何かを調べたり。

しばらくこれを続けてみる。

200回過去問解いた先生

過去の日記から、数年前にローのある先生に試験勉強の相談をしたときのメモみたいなのが出てきて、そこに、「先生は、択一の過去問を200回解いた」と書いてあって、ひっくり返りそうになった。

先生は、超人(とまた勝手に私が決めつけて自分はできないと思い込む材料にしているだけだが)みたいな人で、天才だから軽々と司法試験なんて突破したんだろうと思ってたが、択一過去問ってどこまでさかのぼったのか知らないが、膨大ではないか。200回?択一以外に論文試験もあるのに。

ふと、先生は悩む暇などなく、ただひたすら必要なことをやっていたのだと気づいた。そして、だから、今の先生がある。

悩みとか不安というのは、自分が現在何をしているかに無頓着な行為、なのだろう。何も観てない。何も感じてない。何もしてない。

数年前に、「3年はきちがいになってやれ」「めちゃくちゃやったれ」と言われたことを思い出す。えーそんなことできるかなあ、私って真面目だし、なんて思ったような気がするが、アホや。きちがいになれない自分が悔しい。

私は受かるのだろうかとか、どうしようとか、バカじゃないのか。自分は当然受かるつもりでやるわけで、実際受かるかは試験委員が決めることだ。そこで悩みたいのは、結局、曖昧で居るほうがメリットがあったのだ。まあそれは過去としてもういい。

悩みたいなら、1000回やってから悩め。

誰からどう思われるとか、一般的にどうとか、履歴書に書けるかとか、追々デメリットにならないかとか、そんなこまいことばっかり考えてるから、本当に一番大切なものだけを取りに行くことができないんだ。どうでもいいことが多すぎる。

ただ、やるんだ。

一体今自分が何をやっているかって、試験に受かって、そこに待っている世界に足を踏み入れたときに、ちゃんと自分の目で現実を見られるようにする訓練なのだ。

ただ知識があればいいのではない。知識が固定概念をさらに生み出し、余計な足かせになることもあるだろう。だけど、知識に不安があると、知識がないことに気が取られてしまい、その場に集中できない。

私は、そのリアルの場に自分を賭けたい。そのために生きたい。そこで何ができるかなど全く分からないが、そこに足を踏み入れる準備はもうできている。あとは、行くかどうかを自分が決めて、決めたことが実現するために必要な勉強をするだけ。頼むから、過去の記憶の再生に負けないでくれ。