なんも問題ない。

因果関係、これのせいでこうなった。それ、ほんとか?

これのせいでこうなった、なんてほんまか。

仮にそうとして、だから何や。それが悪いって誰が決めた。

 

自意識。妄想。自作自演。

何かを決めたがる。決めて予定調和の中に押し込んで安心したがる。

「知ってる知ってる、それはこういう問題、私が悪いんだ。」

「そんな意味のないことには興味ない、時間がもったいない。」

その世界。

どんだけ生きてきた、その無機質で無為な演出劇場。

本当は、世界など自分が理解したり判断したりすることもできないほど大きい。

それではあまりに恐ろしすぎて。

 

大深刻だと思ってきた、訳のわからない苦しみ。

答えがないと思ってきた、善悪についての思考。

それに対する私の思いはとっくにここにあった。

「私はそれを問題などと思っていない。」

 

それはただの事象。だから何だ。

それで何を感じるのか、そして、どうしたいのか。

それらしい言葉で綺麗にまとめて貝のように閉じこもることなど許してたまるか。その命を生きろよ、私をそんな言葉で煙に巻けると思ったら大間違いだぞ。

ずっと、そう思ってた。

外ばかり見てきたけど、本当は、誰よりも自分に対して、その言葉を叫んでた。

 

問題とも思ってないのに、予定調和から外れる恐怖からそれを問題視したとき、信じられないほど雑な決めつけをしていると気づいた。

ここのところずっと、「拗ねている」と思っていた。しかし、よくよく考えたら、「拗ねる」ってなんだかもよく分かっていなかった。なんとなくネガティブな言葉を自分に引き付けることには極めて強引で雑で、そうに違いないと決めつける。そう、私は、問題で忙しいんです、と言って、本音に向き合わないそれらしい理由を作り出しつづけていた。

 

誰に対して言ってたんだろう。

 

約1年前に、勉強をまともに「頑張る」ことができない自分に気づき始めた頃。

ただ目の前にある勉強をやればいいのに、全くできない自分を「人間のゴミ」と思って、心の中で刺し続けていた。

お前なんか消えてしまえばいいのに、と毎日自分に言っていた。

順調にできているように見える人と自分を比較して、もうだめだ、存在自体害悪と思っていた。

 

でも、今日、おそ松くんの自意識ライジングと自意識ビッグバンを見たとき、自分の「頑張る」ことができない状態は、自意識ビッグバンを防ぐための自分の最大限の抵抗だったと感じ、物事は、本当に善悪ではないし、見る角度からによって、違うものだと感じた。

 

私は、世間に合わせにいこうとしてたのだ。自分の不安や恐怖を隠すために、必死で我慢して資格という形を手に入れさえすれば大丈夫だ、それが善だ、そこに説得力がある、とりあえず行ってみれば何とかなる、と自分に言い聞かせて。

でも、そうして手に入れたものを自分がどう扱うかを、私はなんとなく知っていた。

「守り」しかない。

「こんなに我慢して手に入れたものを離してたまるか」という執着。

本音より建前。実質より形式。これを失ったら終わり。自分の存在維持のための道具。

そんな善悪に依存した自分で、「善いも悪いもない」を体現できるわけがないと思っていた。

だから、絶対に、自分の恐れのために、手にしたくなかった。

 

ああ、思い通りになってる。なんも問題なかった。

 

今日分かったこと。

誰も説得しなくていい。誰に働きかけなくてもいい。

ただ、私が、「善いも悪いもない」を生き切ること。それでできる世界。

どんなことがあっても、ああそうなんだね、とみること。

説得しなくていいなら、説得力を得るための資格などいらない。

 

私は自分に問いつづけたい。「なんでそれがだめなの?」