私が好きなことを知ってる人はこの世に何人いるんだろう

午前中はひたすら自意識を吐き出し、午後も散々、自意識過剰を繰り広げた。私の中には自意識しかないのかと、また自意識過剰になる。もうなんやねん。周りでまともそうに働いている人がうらやましい気持ちにもなるが、やっぱりそうでもない。そうこうしてたら、また連絡のない男のことを思い出して、腹立たしさと諦めと悔しさと「やっぱり私ってそういう運命だよね」みたいな訳の分からない決めつけにまたプカプカ浮いていた。キモいって。

 

で、帰りの電車の中で、ふっと、標題のことを思ってみたら、誰ひとりいない・・・・って気づいた。

私が好きなこと、を知ってる人は、この世にいない。

私が記憶のないような頃にやってたことを親が覚えてるとかじゃなくて、私が、これが好きなんだ、と体現して人に伝えたことが、あっただろうか。

 

私も知らないのに、誰が知ってる?

何も発信してこなかったのに、誰が知ってる?

そんな私のことを面白いとか魅力的だと思う人がいたら、エスパーか。

 

ねえ、今まで何をやってきたの。

歯を食いしばってばかりで、食いしばることが目的になってたじゃないの。

 

自分を好きになりたい、もう苦しいのはいや、なんで自分ばっかりって言う前に、自分と対話しろ。

わいてくる自意識が永遠のように思えても、それと付き合うしか今はできることがない。

そんな人生嫌だっていったって、それらしく生きたところで楽しくないんだから、どっちも一緒でしょ。それならせめて、希望がありそうな苦しみを選べよ。

そして、誰かのことを考えるんじゃなくて、自分の好きなことをやれ。わがまましろ。

他人を呆れさせるくらいずれてしまえ。

とってもくだらないことで笑って笑って、忘れてしまえ、他人の行動など。

またいつもの回路にもどったら、そこにある思いを吐け。汚くても、ダサくても、文字にどうしてもできなくても、存在を認めよ。

ほんとは、そんなことどーでもいいから、忘れるから。

 

こないだ、「ちゃんと人に嫌われろ」って、文字で読んで、確かにね、などと甘く見てたが、とんでもない。

人から嫌われるなんて嫌に決まってる。今は。

でも、嫌われるべき人から嫌われたら、嫌いな人が自分の人生に寄り付かなくなる。

そのことに気づかなかった。

 

自分の人生がずっともやがかかっているように思っていたのは、なんでも受け入れることが善、と思って、善の道を生きていれば安全と思ってたからだ。

 

それで一体なにがしたいんだったんだろう。

 

今日は、飲み会を断った。それも、なんの理由もつけずに、瞬時に、真顔で。

「私は欠席で」と言った。

偉い人たちもくる。仕事で関わってきた人も来る。「いやーちょっと都合が」とかいう言う方だってできた。そういってる人もいた。

でも、私の本音は、「行きたくねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」だったから、本音を言った。

 

その後、すっごいザワザワした。

でも、なんでそんなに自分の出席が重要視されてるとか思っているわけ?と思ったら、またもや自意識過剰かよ。もう、ひたすら自意識過剰を生きてたのかよ。

でも、今はそれを裁くことに意味はない。徹底的に、明らかにする。

 

自分の悩みは悩みではない。

自分が他人のことで悩んだときは、自分を見ないための理由を作ってる。

そのシステムを明らめる。

自分の動きがいかに滑稽に思えても、自分の心の動きが中二病に思えても、小学生に思えても、それでもいい。知る。知りたい。

その奥にいるやつ、出てこい。なんもいないかもしれんけど。

 

私は自分が好きなことに囲まれて生きる日がくると決めた。

嫌いなものや、つまらないものは寄ってこないと決めた。

そんなの無理だと思う自分。それが今の自分。

あーもうこわいし、オエオエするし、泣きそう。