200回過去問解いた先生
過去の日記から、数年前にローのある先生に試験勉強の相談をしたときのメモみたいなのが出てきて、そこに、「先生は、択一の過去問を200回解いた」と書いてあって、ひっくり返りそうになった。
先生は、超人(とまた勝手に私が決めつけて自分はできないと思い込む材料にしているだけだが)みたいな人で、天才だから軽々と司法試験なんて突破したんだろうと思ってたが、択一過去問ってどこまでさかのぼったのか知らないが、膨大ではないか。200回?択一以外に論文試験もあるのに。
ふと、先生は悩む暇などなく、ただひたすら必要なことをやっていたのだと気づいた。そして、だから、今の先生がある。
悩みとか不安というのは、自分が現在何をしているかに無頓着な行為、なのだろう。何も観てない。何も感じてない。何もしてない。
数年前に、「3年はきちがいになってやれ」「めちゃくちゃやったれ」と言われたことを思い出す。えーそんなことできるかなあ、私って真面目だし、なんて思ったような気がするが、アホや。きちがいになれない自分が悔しい。
私は受かるのだろうかとか、どうしようとか、バカじゃないのか。自分は当然受かるつもりでやるわけで、実際受かるかは試験委員が決めることだ。そこで悩みたいのは、結局、曖昧で居るほうがメリットがあったのだ。まあそれは過去としてもういい。
悩みたいなら、1000回やってから悩め。
誰からどう思われるとか、一般的にどうとか、履歴書に書けるかとか、追々デメリットにならないかとか、そんなこまいことばっかり考えてるから、本当に一番大切なものだけを取りに行くことができないんだ。どうでもいいことが多すぎる。
ただ、やるんだ。
一体今自分が何をやっているかって、試験に受かって、そこに待っている世界に足を踏み入れたときに、ちゃんと自分の目で現実を見られるようにする訓練なのだ。
ただ知識があればいいのではない。知識が固定概念をさらに生み出し、余計な足かせになることもあるだろう。だけど、知識に不安があると、知識がないことに気が取られてしまい、その場に集中できない。
私は、そのリアルの場に自分を賭けたい。そのために生きたい。そこで何ができるかなど全く分からないが、そこに足を踏み入れる準備はもうできている。あとは、行くかどうかを自分が決めて、決めたことが実現するために必要な勉強をするだけ。頼むから、過去の記憶の再生に負けないでくれ。