「絶望」は意識が創り出すもの。
私はすぐに絶望する。自分にはどうすることもできない、手持ちの物が何もない、あれもこれも出来ない、なんて無能だ、もうだめだ。そんなことを考えて、すぐに絶望する。あたかも重要なことを考えているかのように。
しかし、実際のところは、何も起こっていない。
ただ、頭で、今の状況を「絶望」と思っただけなのだ。
それを嘲笑することは簡単だし、実際暇人で浅はかだとも思うけど、そういう思考癖を作ってしまったのだから他人事のように評価していても仕方ない。徹底的に行動で変える工夫をする。それだけだ。
まずは、目標設定。私は、自分と出会うクライアントを、私と関わることで癒せる存在になる。癒しとは、話をきちんと聞くことであり、意識が創り出した思い込みや恐れを共に見つめることであり、本来のその人が感じているものに共鳴することであり、具体的に自分が持つ知識を使ってその状況を事務的に処理することでもある。そして、既存の制度の不備を指摘することであり、より良い制度とその根拠を提示することでもある。
そのための道具。司法試験に受かり、弁護士になる。
私はいいから、みなさんどうぞ
この生き方を死ぬほどやってきたな、と思う。
ずっと、ローでも、仕事でも、仕事でも、仕事でも、家族でも?
お膳立てをする、気遣いをする、人が楽しければいい、頭はそう思う、そう思えば安心する、だけど、むなしい、何でもって埋められるのか分からない空虚さ、それでも調整しなければ、手配しなければ、人を喜ばせなければ
今日、飲み会を断って、早く帰って勉強するつもりだったのに、結局残業してしまったところ、会社を出たところで、飲み会に行った人たちに会ってしまった。
そのとき、また表題のことを想う。
どうせ私がいっても盛り上がらない、誰も私と話したくない、私は話すことがない、仕事について話すことがない、熱く語れるものがない、試験に受からない話でもするか?違う。
などと考えてるうちにやけっぱっちになる。もちろん内心で。
やけっぱちは楽ちんだ。もう何も考えなくていいから。どうせ~と言ってれば何か変えられない重い事実を持ってるかのようにも思える。
でも、そうではない。
(残業させて)ごめんね、と上司にいわれて、いえと反射的に言ってしまう。
違う。
自習室によればよかった。どんなに遅くとも。
誰かの手を借りなければ。でも、誰にどうしていいか分からない。
あーそうやってまたうまいことやろうとしてんだな、もう。めんどくさい。
一人で抱え込むこと
ずっと持っていた違和感は、きっと一人で抱え込んで、世界を断絶させ、わけのわからない妄想や、それでも一貫性を貫かなければならないという空気読みなどの、ごちゃごちゃしたことであり。
世界はシンプルな気がした。
週末に、久しぶりに学校に行き、知っている人がほぼいないという状況にとても安堵した。
まっさらな気持ちでもう一度やろう、と思った。
他方で、過去のいろんなドラマが思い出される自習室ではあるけど、
ふとここのところ感じている、見守られている感。
誰に、というわけでもないし、誰とも言葉を交わさない(話しかければいいのだが、みんな勉強してるし・・・とまた言い訳ww)のだけど、大きな何かに守られている感じがする。
私が頑張るのではない。
頭では理解していても、何度も何度もそう思っても、
「でも、勉強はやらないと試験になんて受からないじゃない!きれいごといったって、血を吐くような思いでやらないといけないんだよ!昼間仕事して、そのあとに夜中まで毎日勉強してもたいして進歩のないこの自分を何とかしなきゃいけないんだから!」と
ずっと思ってた私であるし、今もそうは思うけど、
私が頑張るのではないのだろうな、と思う。
概して、読んでも読んでも頭に入らないときは、恐れからやっていて。
やってやろう、などと思っている。内心、間に合わない、また落ちる・・という恐怖で。
だけど、護られてるなあと思うときは、
丁寧に、説明しよう、理解しよう、法律も恐れからではなく、愛の道具なのだなと
腑に落ちる。
その時間を増やし、説明できるまで知識を増やし、説明をしていくことだ。
それは、試験とは関係のないこと。
本来、私の人生でやることなのだと思う。
でも、なかなかお尻に火がつかないので、
今は試験という機会をもらっている、のかもね。
私は、刑事事件というよりも、憲法訴訟をやるんだなと、
まさかの未来を見てしまった。
なんでもいいけどね。
家に帰り、おふろに入る。
前にはなかっ発想。
時間ないんだから!シャワーで!と自分を罰し、それに納得してた。
でも、少しでも自分を休めて、明日も学ぼうと思うから。
光を、放つ。
【過去の記憶を訂正して、忘れる】
以前から、私がすることは反対される、誰にも応援されない、私は何事も成し遂げられない、などという思い込みがあった。
そのことはとても非論理的なのに、強烈に自分の中にあったもの。
しかし、私は、誰にも反対されていない。
安心感のなさを、外の要因のせいにすることは、もう飽きた。
私は、誰かを反対者として悪者にしたり、自分を下に置いたり、卑下したり、できない人間、と決めつけることで、ただ自分が試したいことを試したい場所で堂々とチャレンジすることへの不安を感じずに済ませただけだった。
私の願いは、この世界の現実の中で起こる(今の自分からは想像もつかない)様々なリアルな出来事に、限りなく先入観を排して対し、法律の知識を使って、その状況に立ち会うことだ。
しかし、そういいながら、今の自分が数えきれない先入観の呪縛で身動きが取れなくなっていることを挙げて、自分の願いはあまりに非現実だと考えた。その位置に5年くらい居た。
論理性、知識の欠如、視野狭窄、柔軟性がない、頭の回転が遅い、戦略がない、事務が出来ない・・・って諦めるための自己説得?
仮にそれらの道具が必要なら、何とかしてやってやる、だろう?
私は、だれかが決めた善悪というレンズを通さずに、人に出会いたい。
例えば、自分の思考は今、「平和」というものを良いと考えていて、それはある程度まっとうな論理だと思うが、もしかしたら私が無意識的に実現しようとしているのは、今の常識からしたら非常に逸脱していることかもしれない、という恐れがある。
それでも、その状況になる前に自主規制するのは無意味だし、バカバカしい。
在りたい姿、見たい景色、味わいたい感情を暫定で置き、やってから、考える。
やらない理由がない。
これまで唯一の?理由だった、人に反対されている、というのも勘違いだしね。
私は何かが成し遂げられる人間だからそれをするのではなく、それがしたいからそれをするだけ。
いい加減な記憶に縋って自己否定してたことすらも、流して忘れたらいい。
くっそおおおおおおおおおおおおおおお
という思いが、ふつふつと湧いてきた。
最近、毎日毎日、この声が大きくなって、舐めてんじゃねえよ!とぶちぎれつつある。
自分の人生を、人のことを舐めすぎだ。もうほんと一回記憶喪失にでもなれば?ってくらい舐めた妄想でぐちゃぐちゃしやがって。
何もしてへんやんけ、結局!
悔しい!
悔しい!!
人事面談で、上司に、私は来年合格するから、これからは飲み会には出ませんと宣言した。
上司は、よしじゃあ俺も誘わないように気を付けるわ!といって、仕事を減らしてくれて、試験前3週間くらい休めば?と言ってくれた。
邪魔されてると思ってた。飲み会とか、出張とか、私は受験生なのに・・・てアホか。
あたしが、「私はこれをやります!」って決めてへんかっただけやろ。
仕事でも同じや。恋愛でも同じや。人生すべてつながってる。
お前なにがしたいん、ってそれだけちゃうの?
なんかしらんけど、いろんな人が「応援してます!」と言ってくれることに気づいた。
私が、自分でやってなかったから、受け取れなかった。
応援されたら困るから。
ぐああああああ!悲惨!!!!!!!!!!!!!!
なんてこった。
孤独とか、ひとりとか、誰も応援してくれないとか、意味不明すぎ!
なんかさ、職場の人は多数の人が、家庭をもって、子供がいたりするのだけど、
私、よく自分は違う、自分はまともではない、ってどっかで思ってもうてたんやけど、
なんか、それってなんで?って思ってん。
たとえば、その状態を「幸せ」と私が感じるのであれば、そうなれるようにすればいいのだけど、私、その状態だけを「幸せ」とは別に思ってない。
否定はしないけど、それよりも、今の自分の最もそばにある「幸せ」の感覚は、「自分がニュートラルな状態で、自分を活かして、この世の中を見て、仲間とともに、人によって全くことなるそれぞれの幸せを、引き出すための具体的表現活動」なのだ。
それが一体なんなのか分からないけど、その1つが、訴訟、かもしれないし、本を書くとか議論したりとか、いろんな人の前で話すことかもしれないし、「それ、ほんと?」って問いかけること。
大好きな人と一緒にしたいことは、ただ一緒にいてだらだらすることではなくて、私を大切に思うな最優先で会いに来いとか、毎日メールしろとかそういうんじゃない。
私は、あなたと、創造がしたい。恐ろしく、美しい文章を、共に書きたい。
それなのに、自分が思ってもないのに、誰かが、多数が、マスコミが、雑誌が、親が、友達が、職場の人が、ネットが、誰かしらんけど、いろんな人が言ってると思うからって、なんでその価値観を無条件に取り入れて、自分の愛優先に置いちゃってんの?って心底不思議になって、あっはっは、って思った。
なんにせよ、私が活き活きするには、今の自分で今すぐできる幸せをまずは全力で生きることではないか。
それなしに、何してもむなしい。
それしないと、結局、我慢、隠す、抑える、不満、被害者意識、そして、また、ぐおおおおおおおおおおおおという生活をしてしまうぞ。
もう、悔しいっ!
だから、私は「すごい」と言われる人に会いに行くのはおいといて、ひたすら自分を鍛える。勉強する。その具体的覚悟と、具体的行動があれば、絶対、この世界が私を法律家に導いてくれる。
美しい文章、読んだだけでとろけるような。
私の夢の1つは、自分がそんな文章を書けるようになることだ。
こないだ、ずっと憧れていた学者の先生と仕事で会うことができて、その謙虚かつエネルギッシュな姿勢や頼まれたことへの全力投球ぶりに圧倒された。なんなんだこの人は、こんな人が存在するのか!と言葉にならなかった。
なにより、一番ショッキングだったのは、その先生の書く文章。
言葉で表現できない、どうやったってかなわない、自分と同じ日本語を書いているとは思えない、そんな情熱的かつ圧倒的な美しさだった。
私は、これまで仕事でいろんな形式的なメールや文章を書いてきたし、それが建前であっても、人の気分を害することはないだろう、社会人としてまっとうな文章を書いているだろう、とどこかで舐めていたと思う。言葉を舐めていた。こんなもんやろ、と。
でも、あの先生の文章は、ただの事務メールであっても、なんというか、もう胸がいっぱいになって。自分がどんなに頑張っても、取り繕っても、10時間かけても、あんな文章を書くことができない、とひれ伏したい気持ちになった。
そのことをまた、理解できず、言葉で表現できないのが、私の実力の限界なのだと思う。
言葉への真摯さの欠如。
何てこった。
感動したものを表現できないで、一体なんのために言葉使ってんだろ。アホなのか。
すごい人は、本当に精緻で、丁寧で、神経が研ぎ澄まされていて、全力で、対等で、研究熱心で、美しい。とにかく、美しい。
心底感動した。
ただの事務メールに、心から感動した。
すげえや。やっぱり、すげえ。
法律を扱っている人は、文章が分かりにくいとか、難しい言葉を使うとか、全部嘘。
あの先生は、誰よりも分かりやすく、誰よりも、しなやかで、文章がダンスのように、舞っている。言葉を、本当に大切にしている。それだけは、よくわかった。
あんな文章を書けるようになりたい。絶対なりたい。絶対なる。