自虐自責の癖は随所に現れる。良かれと思ってやることにこそ。

自分の癖は自虐や自責をして、訳の分からない問題らしきものを作り出し、悩んで時間を浪費するということだ。そして、それはいわば「なんでもいいから、このざわつく感覚から逃れたい」という妄想によって作り出した緊急的なものなので、自分エネルギーや動機とは関係ない異物で、なぜ自分がこれを悩んでいるのかすら分からなくなり、解決不可能な大問題かのように錯覚することとなる。実際は、何も起こっていないし、何も始まっていないのだが。

それを日々の中で、ちりばめているのだろうが、癖は安心とつながっているため、なかなか気づけない。またやってもうてた、と気づく時は大抵人と関わったときだ。先日、上司に言われて気づいたことがあった。

ある寄稿のために文章を書くことになっていたが、私は色々考えたがもううまく書けなくて、イライラしながら、どこか妥協しつつ提出した。とりあえず最低限の体裁を整えなければ、どうせ誰も読まないが、もし批判的な人が読んだら問題になるような文章は避けなければ、などと考えていたからだ。

私は、自分の属する組織(もちろん自分自身も)が問題にさらされないように、と、そんなことを考えているつもりだった。だから、今回の文章を提出するときにも、上司に、そういう観点で私の文章がこんな風に見られたりして、批判を受けないかも含めて、確認をお願いします、というようなことを伝えた。良かれと思って。

そしたら、

文章を読んだあとに、「自虐はやめてください。」

と言われた。

そのとき、私は、うわあ、またやってもうた、と思ったが、待てよ、なんか良い自分、みたいなのに、自虐自責がべったりくっついてるんか?と思うと、とても衝撃的だった。

それは、自分自身の認識としては、「一生懸命に取り組んでいる自分、あれこれ配慮している自分」というそれっぽい傘をかぶることで、まるで何かを主体的にやっているかのような錯覚に陥りつつ、他人には、完全にその根底にある自虐、自責、どうせ私がやってもだめだ、あきらめ、つまらない、というのが、筒抜けということだ。主観と客観が完全に乖離。

なんということだ。

そして、褒めてもらった言葉を、それが、どうせ全員にいってるんだろ、とか、褒めてりゃいいと思ってんだろ、とか、また自虐の道具にしている。そして、批判はもちろん自虐に最適なので、すぐ採用する。

ありがとうございますと、何でもいいから全部受け取る。まずはそこからだ。むずがゆくて、こいつ社交辞令を本気にしとるアホやと思われてるだろうか、などと考える暇があったら、何でも受けとって流す。

だって、他人の言葉は、ただの言葉やんか。勝手に意味づけて利用してるのは自分だった。

そうして、昨日は、私を責めてくると思っていた人に、決裁のコメントをもらったのだが、もうびっしりコメントが入ってて、前なら、うわあまたこんなに批判してきた、どうせ私は思慮が浅いんだよ、とか思っていたけれど、ただ見て見たら、これらの言葉はこの仕事を少しでも良く進めるためのヒントである、と。しかも、自力ではみれない観点を、その人の時間をつかってくださっているんだな。と思った。めんどくさいけど有難い。

人の意見を聞くというのは、そういうことであって、とにかく褒められようとしたり、批判されないようにしたり、とかっていうのは、「で、何をするためなん?」がなにもなかった。

何にせよ、今回、仕事で文章を書いてみて、私は文章書くのがやりたい、と思った。ひとつの感情的な動きとして、相互のエネルギーの行き来、のようなものがあった。毎日仕事でやりとりをしている方に、事前に自分の文章のドラフトを見てもらったのだが、思いのほか、その人が、力作だ、今後の自分の資料作成の参考に使いたい。と言ってくださったのが嬉しかった。そうして、何となく、その人と自分の間に暖かいものが動く感覚を覚えた。これは勘違いかもしれないが、私は、仕事なんだから、と、良かれと思って(また)、自分の思ってることを出さないが、相手は、私が何を思っているのか、全然分からないし気持ち悪いと思う。今回、文章を通して、少し交流できたのかもしれない。リスクをおそれて、表に出ないこと。それは、安心かもしれないが、歓びには通じない。

それに、私は、誰かの役に立ちたい、という思いを、安直な承認欲求、と自虐して否定してきたけど、こうして狙ってもいないのに結果的に誰かの作業の参考になりうる、というのは素直に嬉しいことだった。やはり、私は、誰かの役に立ちたいと願う。

従前、日野先生が、「表に出てください」と言ってくださったことを、思い出す。

もっと、良く分からない感覚、を1文字でも文字にするために、人と関わりを持ち、体験を文字に還元する。