何か感じることがあるから、それを具現化したくて勉強している、なんて当たり前ではないか。
まるで特別なことかのように思っていた自分がいた。
私には、何か感じるところがある、みたいな、自意識。
あるだろ、そりゃ。人間なんだから。なのに、それはなんか海溝の底に埋まってる財宝みたいに思ってたわ。どこかで、それを具現化、実現できなくても仕方ないという留保を残すためなのか。
当たり前に、目の前のことをやる。今を感じる。それが、できない、あれこれ考えてしまう、過去の記憶にひっぱられる、それは、癖なのだ。私はこんな無為に時間を過ごしてしまった、、とまた落ち込む材料にしている間は、何も進まない。
当たり前のことを当たり前にやる。その中で、それはただの当たり前のことではないと気づく時が来る。のだろうが、私にはそこまでやり切った経験がない。
だから、今やっている。何歳だからとか、結果がでないとか、どういう環境だからとか、忘れるまで、やり続ける。
そして、そのやり方として、単に不足感からくるコミットメントや自己犠牲から長時間やってるだけ、から、どうすれば求められることに対してアウトプットできるようになるか、という工夫をすることが当たり前になってくるはずだ。
うわべだけ。付け焼刃。形だけ。情けない。
それは幻だ。今ここから、違う行動を選べる。