型があるから自由に表現できる

私の数年来の悩みは、自分はなぜこんなにポンコツで、バカで、法律が理解できなくて、論文問題がとけなくて、論点さえも理解できないんだろう。だと思っていた。人ができることができない人間。

私の問題は、法律という型を身に着けられないこと、それを使って応用できないこと、に向けられていた。

が、全くもって茶番な気がしていた。

が、できないことは客観的事実だし、と結局そこに戻っていた。

私の会社には、規程が山ほどあって、知らない手続だらけである。

いつだって、分からない規程や手続を知って、その射程範囲を理解して、今自分が直面していることをあてはめて、誰かに相談して、やる、という作業が求められる。

それが、すんごいストレスだったのだ。

なぜなら、私は、そもそも、人ができることができず、型を身に着ける能力がない人間、と思い込んでいるからだ。型(規程や手続)を知らないこと、運用方法、応用方法が分からないこと自体が自分の欠陥、と直結する思考回路にあったからだ。

知らないものは知らない。当たり前だ。

でも、型は(少なくともある程度の)趣旨目的があって存在している。だから、それを知って、不要なら変える。要なら、それにのっとって、じゃあ今回はどう使うのか、を考える。そこではじめて、自分で考える、が出てくる。

なのに、私は、あろうことか、型のとこで止まっている。まだ法律にも、現実にも触れてなかった。

型を身に着けられないことが悩み、などありえない。というか、それが悩みになる程度のことなら、さっさとやめたほうがいい。でも、どうしても気になるなら、やるしかないだろう。

そして、もし本当に、私なんかにできやしない、と思っているなら、とことんそれを証明してやればいいではないか。それを証明したいとしても、結局、型を身に着けて、考えてみる必要がある。やりもしないで、私には出来ない、なんていうのは、そもそも証明にすらなっていない。

ただ、何もしていない、だけ。

なんでそう思ったかというと、昨日、ずっと、よく分からないままやっていた社内の手続が、ふと肚に落ちたとき、すーっと視界が広がり、じゃあこんなこともできるだろうか、あんなこともできるだろうかと、中身のことを考えている自分に気づいたからだ。型の悩みを通りこえて、はじめて、はじまる。